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いろいろ色の小話4(思い込み編)

いろいろ色の小話4(思い込み編)

平成25年10月20日

 1.再び始動

平成25年8月、青山さんと京都駅近くの王将で食事をしながら、地価に関する発表論文の打ち合わせをしていた。

打ち合わせを終えると、青山さんが「そういえば墓石色調査どうなりました?」
私は「昨年7月の調査で行き詰ってしまって・・・」
「関西にも黒が少なからず存在しますので、何をもって境とするか・・・」。

青山さんが「何か属性が必要なのですかね?」と言った。

属性っていうと、何がある?そうだ墓を建てた年か。

関西で少なからず存在する黒の墓石は、ひょっとしたら 輸入が多くなった平成のものではないのか?
だとすると、平成まではALLグレーということになる。

現地で、年号を取得して行けば良いのだ。

「青山さん、少し落ち着いたら調査を再開します。」
と言って、もやもやが、解けた気分で店を後にした。

しかし、その後の調査において、現実を目の当たりにして 多くの自分の思い込みを痛感することになる。

 

2.いきなりの思い込み発見

9月中旬、静岡と北陸での墓石の色調査を行うことにした。

浜松あたりが境と推測していた私は、浜松から1つ西の駅である、高塚駅近辺の墓地から調査することにした。

駅から一番近いお寺は、壁が張り巡らされ門からしか入れず、入りにくい感じだったので、無理に入ることはしかった。

次のお寺は、門をくぐって直ぐに墓地があったので入った。

例のごとく「失礼致します」と手を合わせて墓地に入る。

墓地に入ると、すぐに黒の墓石が存在した。

ALLグレーを想定していただけに、愕然とする。

「こんなはずでは」
少し動きが止まった。

そして、これは平成になってから建てられたのだろうと、黒い墓石の4面の文字を確かめる。

ところで、どれが建てた日付なのだろう。

数名の故人の、亡くなられた命日が書かれているが、これは建てた日ではない。

昭和49年建之と書かれている。

この建之と書かれているのが、建てた日なのか? そう、私は余りにも無知で調査を始めている。

ここで、清原さんが言った「墓が建てられた年なども無いと話にならない」という言葉が頭をよぎった。

今まで私は、色だけ見て墓を見ていなかった。

清原さんが、言った意味も理解していなかった。

ネットで調べると、建之が建てた日と書いてあり間違いなかった。

そして、もうひとつ、昭和49年という事実。

輸入品が増える平成より前から、黒が存在していた。

ということは、少しだけ黒があるパターンは、殆どが平成という推測が早くも打ち砕かれた。

少しだけ黒という、その墓石は、かなり前から存在していたことになる。

どう捉えたら良いのかと思いつつも、今回から1墓地の墓石数量を確認することにした。

といっても毎回、全ての墓石を数えるのは無理なので100以上の場合は100以上として100未満については数えることにした。

数えたところ、100以上になったので100以上の墓地と確認でき、駅に戻ることにした。

浜松は、後日レンタサイクルで調査を予定しているため、次の天竜川駅へ向かった。

天竜川駅から近くのお寺の墓地に入ると、100以上で2つの黒色を発見(S48,H13)。

昭和のものが有る。

そして2つという事実。

2つ程度であれば、殆どがグレーであり、関西と同じ墓地の光景にも思える。

やはり浜松付近が境目なのか?しかし、ALLグレーでない事が引っ掛かる。

それも、この墓地では、昭和48年から黒い輝きを放っていたのだから。

その後、境目の本命と推測していた磐田で三つの墓地を調査した。

全て100以上で黒い墓石の数が1、4、4だった。

どれくらいなら、グレー地域として、少しの黒を許容出来るのだろうか?
と考えながら駅に戻った。

3箇所周るだけでも1時間ほど歩くため、汗びっしょりだ。

ダイエット中なので、調査を兼ねて歩くことは一石二鳥だが、しかし暑い。

体が燃焼していることもあるが、気温が今年の暑い夏を、まだ引きずっている。

時が、日没に迫って来た。

次の島田駅が、最後に調査できる箇所となる。

島田駅の南ロータリー近くにある墓地は、100以上で9つの黒い墓石(S49,S52,S52,S53,S62,S63,H18,H19,H20)
が存在した。

9つだと、もうまれという感じではないと思った。

という事は、このあたりが境目なのだろうか?
しかし、前回の調査では、藤枝や焼津では、黒は数個程度だったはずで、島田だけが特別に黒色の墓石が多いという事か?
もちろん、静岡市から東のような黒の多さではないが・・・と考えているうちに日が沈んだ。

相当歩いたので、日没となって少しほっとした。

日没がなかったら次の駅、次の駅とどこまでも調査するだろう。

知りたいという欲求は、判るまで止まらないだろう。

だから9月から11月に、調査を終える予定にしている。

冬の調査は厳しいし、かといって来年まで知りたいという欲求を耐える自信が無いから…

 

3.黒中心地域へ突入

東京から、越後湯沢駅に向かう新幹線に乗り込んだ。

駅後湯沢から、上越へ向かう北越急行鉄道に乗るためだ。

在来線だと130km程度が特急電車の最高速度だが、この北越急行鉄道は160km走行を行って、越後湯沢から魚沼地方を超えて、一気に新潟南部の日本海へ出る。

北越急行鉄道でも車窓から墓地を探す。

かなりの黒割合。

グレー中心地域と異なるし、黒中心の墓地が続いている。

夕方に直江津駅に到着し、直ぐに墓地へ調査に向かった。

お寺と幼稚園が一緒になっている墓地だった。

静岡の墓地は、目隠ししている事が多かったが、新潟ではどうぞ見てくださいという感じで、出入りする箇所が何箇所もあって、自由に出入りして下さいという感じだった。

結果は、2箇所とも100以上で黒の墓石の数は29と59だった。

建てた年を1つ1つメモしているため時間が、かかってしまい、陽が暮れてしまった。

明日は、いよいよ新潟から富山に入る。

予想は親不知だが、どんな結果が待っているのだろうか。

 

4.のどぐろ万歳

本日の宿泊先は、直江津駅から南に2駅目の高田駅近くで泊ることにした。

前の会社の上司だった藤川さんと、呑むためだ。

藤川さんと居酒屋に向かった。

藤川さんには、来る前から墓色調査ですと伝えていた。

藤川さんから「あれから墓の事が気になって、墓地とか見ちゃうんだよね」と言われた。

この墓調査には、すごく人を惹きつける何かがあるようだ。

殆どの人が関心を示し、その後どうなったかを、尋ねられる。

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居酒屋で、日本海の魚の刺身や煮つけを堪能した。

特に、のどぐろは、今が旬らしく焼き魚なのに脂が凄まじくのっている。

 

 

 

 

店員の方が、富山出身ということで、墓の色の話を切り出した。

やはり、富山側では黒が少ないということだった。

そして、富山と新潟の県境で意外な話を聞いた。

市振駅がある市振は、新潟県ながらも富山の味付けとの事だった。

ということは、墓石の色もグレー中心なのだろうか?

そして、藤川さんと談笑していて、何故、墓石の色をそんなに必死で調査しているのと聞かれた。

私は、3つ思い浮かんだ。

1つは、グレーしかないというのが当たり前と思っている私のような者もいれば、塩尻のように、殆ど黒ばかりという中で育っている人がいる。
その事実を、数量化して客観的に伝えたい。

2つ目は、墓石の色に興味を持ったところで、いずれ誰もが行く場所について、少し考えることができるのではと、それは樹木葬とか散骨なんかも含めてだ。

3つ目は、今回の調査結果を、視覚的に表現するためには、地理と情報処理が必要であり、それはGISという地理情報システムを、世の中の人に認識してもらえる事になるのではないか、と考えたからだと藤川さんに話した。

「武司は昔から分析とか好きだったから、本当好きなことやっていると思うよ」

私も、そう思う。

 

5.新潟と富山の県境へ

翌朝、上越駅と糸魚川駅の間にある、能生(のう)駅で降りて調査に向かう。

上越駅から西はJR西日本となる。

新潟の南から山口県までという広い範囲を、JR西日本はカバーしているのだと実感する。

調査の結果は、100以上の墓地が2箇所で15と16だった。

まだ黒中心地域だ。

次の糸魚川は、本日、夕方に念入りに調査して、宿泊する予定なので通過する。

糸魚川駅を超え富山方面に向かい、青海駅で100以上の墓地が1箇所で10、親不知駅では50基で2つだった。

そして、市振駅に降り立った。

この市振駅から越中宮崎駅の間に県境がある。

この駅間は1.7kmあるが、歩いて全ての墓地を調査することに決めている。

少し楽が出来ないかと、駅近くのバス停で発車時間を確かめるが、土日は運行が無いらしい。

運行時間もさることながら、その町内循環バスの路線図を見てびっくりしたのが、富山側の朝日町営の循環バスが、新潟に来ているという事だった。

少し地元の方の生活状況を聞いてみたいと思い、駅前の商店に入り朝食のパンを買う素振りで話を切り出した。

「ここらは富山からバスが来るのですね」
「そう、ここらのもんは、みんな病院行くのも買い物も朝日に行くのよ。」
「同じ新潟県の糸魚川に行かないのですか」
「朝日に行くほうが平坦地でいけるからね。昔は糸魚川まで海沿いにワカメをとりながら行ったもんだけど、港が出来て今はねえ。若いもんは車でどこでも行けるけど、私らはトンネルがいやなんよ。ここらに嫁に来たのは朝日からが多いよ」

墓石の色の決定は、人が行う。

その人が、どこから来たかは大事な話で、この市振が富山の味付けであることも納得できるし、墓石の色の決定にも、無意識的にグレーに誘導されるのではと思った。

そして、市振の集落の墓地では34基で1、29基で1つが黒色だった。

さらに、富山県に向けて進む。

新潟と富山の県境は、境川という川だった。

ここで疑問が沸く。

何故、県境が親不知ではないのか?

11月の沖縄モノレール乗車で、全国のJR・私鉄を走破する私は、県境を何回も通ったが、通常であれば、あれだけ人の通行が困難な箇所が、北陸と上越を分ける国境と経験的に思われたからだ。

ネットで調べてみる。

どうも、ここに関所があったようだ。

関所を機能させるために、親不知よりも少し北陸側にしたということか。

この県境については、多分に人文的要素が高いということか。

市振の人は、本当は富山県だったかもしれない。

いや先ほどの商店のおばあちゃんは「私らは富山県民」と言っていた意味がそこにある。

いくら行政という区分があったとしても、地形要素から人文的区分とは別の繋がりが発生し、味もそして墓石の色も変えていくということなのか。

まだ断定はできないが、34基で1、29基で1の黒の割合だったら、グレー中心のような気がする。

とすると新潟にもグレー中心区域が存在するし、その境はフォッサマグナの西側ということになる。

新潟県から富山県へ向かって最後の墓地で調査を行う。

57基で1つ、その黒墓石は平成13年だった。

そういえば、市振の2箇所も平成18年と平成19年だった。

ということは、平成13年までは、市振はグレーしか存在しないことになる。

平成になって、黒中心地域が拡大しているというのは、あながち間違いではない?
今回の集計結果を出すことが楽しみだ。

あっけなく県境の境橋を渡る。

富山県に入って最初の墓地は100以上で2基。

昭和52年と昭和8年。

昭和8年の墓は、変色しているようにも見えるが土台まで、元は黒だったと思える色であり黒とした。

この黒を認定するということが、実に難しい。

静岡では、グレーと黒の間のような微妙な色や、上が黒で土台がグレーの場合、変色して黒っぽくなっている場合などが、非常に難しい。

それらについては、墓石色調査の基本に返り、グレーばかりで突然に黒が現れるびっくり度が、その場合に適用できるかを基準としている。

その後、越中宮崎駅までは23基で0、11基で1(S60)、91基で0だった。

9月下旬というのに、暑さが夏のようでTシャツは汗が乾いて白くなっている。

ようやく越中宮崎駅まで来たが、その先のまだ1箇所、墓地がある。

次の電車まで、あと15分。

どうする?でも、必ず後悔する。

走った。

汗だくで、足も痛い。

墓地に到着して黒が2つある。

建てた年を素早く確認する。

帰ろうと思ったところ、まだ上に行く階段がある。

もう無いだろう。

いや有ったらどうする?結局また来る?いやそれだったら1本電車が遅れても見に行くべきだ。

心の葛藤が、数秒の中に凝縮される。

考えるより動け!階段を駆け上がっている。

2つ黒があった。

そして、年号を取得して振り向きざま走り出す。

なんとか電車に間に合い、糸魚川では100以上の墓地が5箇所で28、4、7、13、16だった。

ばらつきがあるものの、1とか2とかというレベルではなかった。

 

6.富山へ

糸魚川駅7時31分発、金沢行きの電車に乗り込む。

北陸新幹線の停車駅ということで、新幹線の駅工事を行っている。

新幹線が出来ると便利にはなるが、富山から上越にかけてJRではなくなる。

青春18切符で、北陸から関東に入ることが出来なくなるわけで、そういう意味では悲しい気持ちもある。

ゆっくりと、日本海を眺めながら移動するという鉄道光景が、スピードに追われて機会が減っていくのは、個人的に悲しく思える。

電車は、泊駅に到着した。

この泊駅は、昨日、市振のおばあちゃんが話していた朝日町がある最寄り駅だった。

早速、調査を行い100以上で0、13基で1、100以上で12、21基で2だった。

0もあるが、10以上もある。

どいうことだろうか?

そして、次の入善駅でも同じような結果だった。

100以上で0、46基で1、100以上で15だった。

市振や越中宮崎では、グレー中心に入ったと思った途端、どちらともつかないゾーンになった。

そういえば、静岡でも境と思われる静岡市から西へ掛川・藤枝あたりでグレー中心になったかと思ったら、島田あたりでどちらともつかない感じだった。

共通しているのか?
とすると中央線の中津川・塩尻間の、あの段階的な色変わりとは、何が違うのだろう?

と考えつつ、次の黒部・魚津は調査を取り止めることにした。

本日、帰る予定なので、ある程度の目処を立てたい。

当初に思っていた、富山と新潟との境あたりが墓石の色境というのが、ひょっとしたら金沢まで行っているとしたら・・・県境が境なんて、私が勝手に考えた境であって、事実は現場にしか存在しない。

そう、思い込みで予定を立てている。

だから、予定を変更する。

富山市も広いので、今回はやめて、富山から金沢の間を調査することにした。

予定していた箇所は地図を準備していたが、予定外の箇所の資料は何もないので、空白の紙に手書きで地図を作り、スマホの航空写真で墓を探し、地図に落とす。

富山駅から金沢に向けて1駅目の呉羽駅で降りた。

墓地まで結構な距離がある。

歩きながら考える。

そう考える時間は、たっぷりとある。

各駅を降りながら調査を行っているが、サンプル数は足りているのか?
1つだけでは、確認していない2つ目に、黒がもっと多く発見できたら、1つ目の信憑性が落ちる。

では2つ有ればいいのか?
1つよりはいいけど2つだとなぁ。

そう、2つで頭にピンと兄弟のことを思い出す。

3人兄弟で、性格が似ているのは兄2人で、外交的だが、私は内気で人見知りするタイプだ。

私の子供も、上2人と下の子でよくもめている。

性格というより、末っ子はもめやすいのか?

また、何でも2つと捉えていいのかという事もあるが、ユングは性格を内向と外向きに分けた。

そして墓石の色を今、黒とグレーに分けている。

もちろん、10とかいうレベルで、サンプルがあるのが良いのは間違いない。

ただ、最低数となると1では、どちらかという偶然になる。

2つでは、白と黒、3つだと白と黒にどちらかが加わる。

3つとも白しか無かったら?としても、その駅の付近での徒歩圏の3つは全て白となる。

何か解ったような、解らないような考えだが、今の調査で3つくらいまわると、何となく安心できる。

もちろん、徒歩圏やレンタサイクルによる調査可能範囲にある墓地は全て周る。

出来ることは誠実に、手抜きせずに行うというのが、ポリシーだ。

呉羽駅近辺では、71基で0、100以上で1(S57)だった。

小杉駅 >100で0、>100で0、>100で0、81で0

越中大門駅 >100で3、36で0

高岡駅 >100で0、>100で0、>100で1、>100で1、52で0

福岡駅 >100で4、>100で2

そして、金沢駅に着いた。

日没まで、もうあまり時間がない。

3つ寺を周る。

>100で1、>100で3、>100で0

 

7.サンダーバードで反省会

金沢駅17時56分発のサンダーバードに乗り込む。

まさか、金沢がALLグレーで無いとは…

これも、思い込みだったのである。

本当にALLグレーが相当続くところって有るのか?

いや、でもグレーしか無いと思って育った自分がいる。

少なくとも墓参りに行った時の光景は、ALLグレーだった。

しかし、関西が本当にALLグレーなのか?
そう、僅かに黒が存在することは認識している。

今まで境目ばかり探してきたけど、足元を確実にしなアカン。

近場からしっかり調べて、それで境目やろ!

地酒を車中で飲みながら、自分への説教が始まった。

 

8.ようやく光が

その後は、大阪・京都・福井と時間を見つけては、墓地へ行った。

そして、10月中旬に静岡へ調査に向かった。

愛知県の岡崎駅で降りて調査する。

岡崎石の岡崎でありALLグレーを想定していたが、またもやの思い込みで>100で1、>100で2、>100で4。

豊橋では、12箇所を調査してALLグレーは2箇所、それ以外は各1~3程度だった。

次への移動のための電車の中で考える。

この調査結果を、どうまとめるのか。

当初は、墓地をポイント計測し、各墓地の黒の数ごとに着色するのが良いと思っていた。

しかし、境目となると、何か集計結果が必要だ。

最寄り駅ごとに、黒の平均値をとるというのも考えていたが、平均するという行為が良いのか疑問があった。

しかし、試しに平均値をとってみた。

大阪・京都・滋賀の東海道線では、

岸辺1.0、千里丘0.6、摂津富田1.0、山崎0.2、草津1.0、守山1.0

福井・富山・新潟では

鯖江2.0、福井1.0、大聖寺0.0、美川0.0、松任1.0、金沢1.3、滑川2.2、入善5.3、泊3.7、越中宮崎1.4、市振1.0、親不知2.0、糸魚川13.6

結構、わかりやすい数値になっている。

平均が2を下回る場合が、グレー中心圏と言って良いのではないだろうか。

それと、10以上で黒中心地域、その間が中間地帯ではないだろうか。

実際に1箇所の墓地で1・2だったら僅かであり、10以上だったら黒中心で、3~9ぐらいが微妙な感がある。

8ぐらいで、もう混在のように思うが、それは今後の調査で決めていこう。

そういえば、その前の週に、ある大学の先生と会う機会があり、その先生は社会学を研究されているということで、社会学についてお聞きした。

社会学は、イギリスの植民地政策から生まれたらしい。

異国の地にイギリスの文化を教育するために、その地域の人達は何を考え、その範囲はどこまでかを調査することが、社会学の原点になっているらしい。

そこでは、分類して、範囲を特定することが必要だった。

今回の境目調査も、実は範囲のみならず、黒の数量によって分類することが、必要であり、ようやくある程度のサンプルをとることにより、それが今、見えてきたのかもしれない。

 

9.浜松よ、お前もか

2日目は愛知・岐阜の調査予定だった中間地帯の存在を意識し、浜松と静岡の間を重点調査することにした。

掛川平均5.6、金谷平均6.1、島田15、六合1.6と来て藤枝・焼津まで行くと、浜松の調査が出来ないので、ここまでとし、浜松へ移動することにした。

そして、浜松では平均3.9だった。

浜松は、グレー中心と思っていたが中間地帯なのか?

調査を終え、家に向かう時刻表で中間地帯の距離を時刻表で調べた。

調査が全て終わっていないので想定ではあるが、東の境を糸魚川静岡構造線として、東海道は安倍川から高塚まで77.9km。

そして中央道は洗馬から田立が78km。

うん?どちらも78km程度だ!

この78kmに意味があるのか検索してみた。

すると78kmは20里。

2里以上20里未満で1郡とし、数郡で1国としたとある。

1郡の最長距離が、中間地帯の範囲。

当然、今後の調査で数キロ変化は出ると思われるが、昔の国単位が影響範囲と重なるという意味では非常に面白いと思った。

ちなみに、北陸では親不知から78kmだと、小杉駅あたりだが、調査結果からこちらは78kmではなさそうだ。

あまり、決め付けると「思い込み」になってしまう。

想像することは楽しい事だが

ほどほどに

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